YouTubeの動画「西部邁先生の逝去の地で、そのご意志を受け継ぐ。」について

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西部先生は、自裁されたが、Youtubeでは言及しずらいこともある。今回の記事では、動画内では言及できなかった点について書きたい。
また、西部先生がどのような場所・状況で亡くなられたのかについて、不正確な情報も流れているので、この記事では、それをできるだけ正確に記したいと思う。
その目的は、西部先生の名誉のためと、西部先生の自裁には様々なメッセージが込められていると思うので、それをできるだけ正確に伝えるためである。
まず逝去された場所である。
駅から歩き、丘陵地帯にある公園を抜けると、交通量が多い川沿いの車道に出る。そこの信号を渡ると河川敷になる。その河川敷まで車が入れるようになっており、そこには、広い無料の駐車場がある。西部先生は車でやってきたということだが、この駐車場に車を停めたのだろう。
この駐車場から川に向かって歩くと、数個のベンチがあり、そこから上流方向に川沿いの道を歩くが、それなりの距離がある(駐車場が遠くにかすむくらいになるまで歩く)。
場所は地図で確認していただきたいが、土手からその現場の川岸まで、道もできているので、場所はすぐに分かるだろう。少し急斜面で砂地で滑りやすいが、危険な場所ではない。
対岸には、タワーマンションが乱立している。
川面の美しさと岸辺の荒涼さが対照的なので、地獄と天国の境目に来たような錯覚に陥った。西部先生は信仰心がなかったので(宗教の存在意義は肯定していた)、死後の世界のことも考えておられなかったはずだが、ここから天国に旅立たれたように思えた。
浅瀬から川の中に入っていかれたというイメージを持っていたが、実際に行ってみると、コンクリートの護岸の周囲にはテトラポットが沈めてあり、そこから先は水深がかなりあるように見えた。テトラポットを超えると、一気に水深が深くなる感じである。
川が蛇行している箇所なので(それゆえにコンクリートの護岸を作ったのだろう)、水の流れも速いと思われる。
ちなみに、西部先生は泳ぐことができない方だった。
死は誰にとっても恐ろしいものである。
この場所に立てば、西部先生が、その恐怖と対峙し、それを乗り越えたということが分かるだろう。
西部先生は、勇気をお持ちだった。
ご夫人を亡くされて鬱状態だったことが、自裁の理由だと言う人がいるが、直前にTV番組の収録をこなし、自裁当日も、飲み屋に行っている。鬱状態で自殺する人は、そのような活動的な行動はできないから、西部先生の自裁の原因は鬱ではない。
そもそも、先生の死に対する考え方を知っていれば、鬱のような一過性のものなどではなく、理性的な判断に基づいた計画的な自裁であるとしか考えられないだろう。西部先生は30年近くも死について、深く思考されてきた方なのである。
そして、西部先生は、遺体が流されないようにと、近くの木にロープを結び付け、それをご自身の体に結んでおられたということだが、実際、その木の場所まで行くには、まず、砂地で滑りやすい急斜面を登らなければならないし、流木らしき大木も乗り越えなくてはならず(※その当時にそこにあったのかは不明)、木の周囲には、枯れ木に近いような太い茎の枯れ草があるので、接近しずらい。
手が不自由な状態だったから、たった一人で、ロープに木に結び付ける作業は、誰かに手伝ってもらわなければ、不可能だっただろう。
浅瀬ではない場所であること、泳げなかったこと、両手をひもで縛っていたこと、青酸カリのカプセルを口に含んでいたことも考えれば、(助かる可能性のない)覚悟の死であったことが分かる。
死因は心臓発作だったそうだ。
溺死の苦しさを覚悟の上での入水だったということなので、その苦しみを味わずに逝かれたことは幸いなことであったと思う。
西部邁氏と30年近くの付き合いがあった東谷暁氏によると、死後、対面した時、西部氏は「戦いを終えた」お顔をされていたとのことである。東谷氏は、西部氏の死を「完璧な制御内にあった自裁死」であったと論評した(「新潮45 2018.3」)。
東谷氏は、その論考の中で、西部氏を自裁へと突き動かした衝動は、(制御された)怒りの感情ではなかったかと書いている。
その怒りには、対米従属を続ける日本に対する怒りが、多分に含まれていただろう。その点では、自らの自裁に、米国に屈従し続ける日本政府や日本の保守派に対する憤慨を込めていた三島由紀夫や江藤淳と西部先生は同じ死に様であった。
この場所を訪れる意義は、西部先生の勇気とその怒りと悔しさを感じ取れるということではないだろうか?