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リアリスト学派の国際政治学による日本の外交・国防、国際情勢の分析

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敗北主義に陥ることなかれ(西部邁氏が残してくれた最重要のメッセージは何か?)

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amazonより引用

伊藤貫氏は、西部邁氏を「敗北主義と自決主義」であったと評価した。敗北主義とは、たとえ、それが成功しないと分かっていても、やり続けるということであり、自決主義とは自分のことは自分で決めるということである。

前者については、亡くなるまでの数年間は日本の核武装に対して絶望していたのにも関わらず、核武装の必要性を最後まで訴え続けていたのだから、敗北主義であったと言える。

 

また伊藤氏もここ数年は、「日本が中国に属国化(=併合)されることは不可避」という主張に変化しているので、西部氏と同じ絶望感を感じているようだ。

 

(※日本のエリートたちの外交能力の低さはこの記事に書いた。)

uipkmwvubg9azym.hateblo.jp

 

 

 確かに、両氏ともに20年以上核武装を訴え続けたにも関わらず、エリートたち(政治家、言論人、官僚)は核武装に動こうとせず、ゆえに世論もまったく変わらないという状況であるのだから、両氏が絶望するのは無理もなく、それは悲観主義ではなく、客観的な判断なのだろう。

 

(※日本の言論人たちの責任の重さと彼らのその責任の放棄ぶりは、この記事に書いた。)

uipkmwvubg9azym.hateblo.jp

 

しかし、この二人は一般人ではなく、言論人である。つまり、彼らの絶望はあくまで言論人としての立場での絶望ということなのだ。"言論人として"やれることはすべてやった上でも核武装に動かないことに二人は絶望しているのである。別の言い方をすれば、言論人の立場では、核武装実現のために、これ以上できることは何もないということである。

そして、このことは、これまで我々一般人が行ってきた方法もうまくいかないということも意味している。つまり、この二人を支持する我々一般人の多くは、今まで、二人の言説を他者にも広めることで、世論を変え、日本の核武装を実現するというアプローチが正しいと信じて続けてきたと思うが、それをいくら続けても日本の核武装が実現するということはないということである。核武装をテーマとした二人の対談がTokyo MXで何度も放送されたが、世論は核武装支持には変わらなかった。Tokyo MXは地方局ではあるが首都圏で放送されているので相当数の一般人がこの放送を見たであろう。TV視聴率が落ちてきているとはいえ、twitterなどのSNSで一般人が核武装を主張しても、TV放送に比べれば、社会に与える影響力は皆無に等しい。

要するに、西部邁・伊藤貫氏がTV放送という、主義主張を一般人に伝えるのに、最も効率的な媒体を利用しても、日本の世論を核武装支持へと変えることができなかったのだから、二人に比べれば社会的影響力が無きに等しい一般人がいくらSNS核武装の必要性を訴えてみても、それで世論が変わることはあり得ないということである。


(※ゆえに、SNSでメッセージを向ける対象は、日本にわずか1万人しかいない0.01%であるべきだ。残りの99.99%の意識を変えようとしても、時間の無駄になる。)

(※日本にまともな思考ができる人間は1万人しかいないという現実を認めることが極めて重要である。認めなければ、SNS核武装と叫び続ければ核武装が実現できると錯覚し、その無駄な行為を2030年まで続けてしまうからだ)

uipkmwvubg9azym.hateblo.jp

 

このことを別の角度からとらえ直してみたい。

「その方法がうまく行かなかった」ということは、「それ以外の方法をやればうまくいくかもしれない」ということを意味している。

 

それらの方法の中の一つは、「言論人の立場ではできないこと」や「一般人の立場でこそできること(言論人が行うよりも一般人が行うほうが効果があること)」を実行することである。その具体的な例を挙げれば、「核武装を実現して欲しい」という署名を集め、それを持って、米国大使館や外務省に陳情に行くことであったり、米大使館や外務省・防衛省の出入り口で核武装実現を日米両官僚に直接訴えることである。また、言論人の講演会や所属する大学に行き、会って話をすることもできる。署名の数が多ければ、彼らはそれを無視したり、足蹴にすることはできないだろう。

彼らのSNSアカウントに要請・批判コメントを送っても彼らは無視することができるが、直接会えば、彼らは我々に何らかの反応をせざるをえない(こちらが真摯な態度で要請しても残酷に無視するならば、その人の人格がよく分かるという意味で、大きな収穫なのである)。伊藤氏や西部氏のような言論人から批判されることと、一般の日本人から、しかも、一人ではなく複数から批判・要求されることは、彼らに与える心理的な意味も違ってくる。

 

日本の核武装の障害となっているのは、日本の核武装を妨害し続けているアメリカ政府と、アメリカの脅しに屈している日本のエリートたちである。中国をいくら批判しても、日本が核武装することは絶対にできないということを考えれば、中国を批判することの無意味さが分かるだろう。中国批判に没頭している人たちは、そのことによって、どのようなプロセスにより、日本の核武装が実現するのかを論理立てて説明することなどできない。このことを何度繰り返し書いても、動画で訴えても、相も変わらず、中国批判に没頭しているフォロワーがいるが、この人の頭の中はスカスカでボロボロなのであろうか?

もし、そうでないならば、日本の核武装を妨害しようとしている米中露朝韓、いずれかの工作員の可能性すらありえる。中国を批判しながら、実は、中国の工作員である可能性もあるということである。

 

日本は民主国家であり、官僚は日本国民の公僕であり(※官僚は国民のために働くのが責務)、米国は「日本は価値観を共有する世界でもっとも重要な同盟国」と繰り返し公言しているのだから(※アメリカが日本の核武装を妨害するということは、アメリカという国は二枚舌の嘘つきペテン師という不道徳で、陰険な国ということになってしまう)、「日本を見殺しにする日本の核武装を妨害する・核武装から逃げ出すという行為はやめてほしい」という我々一般人の主張に彼らは反論することはできない。明らかに我々のこの主張は正しく、それを訴える行為は、当たり前のことであるから、何ら恥じる必要はない。黙っているほうがおかしいのだ。日本国民の生命と財産を脅かす、このような不道徳で不公正なこと(=犯罪行為に等しい)が行われているのに黙っているのは、知能がよほど低い者、売国奴、自殺志願者、卑劣な臆病者のいずれかであろう。

本来このような米国官僚との議論・交渉は、日本の政治家・官僚が最優先で行うべきであるが、彼らがそこからひたすら逃げ続けているので、日本国民がその代わりをやる以外に方法はないのである。他国の首相や他国民が日本のために、日本の核武装のために動いてくれることなどありえない。

そして、我々が、実際にやって見せることは大きな意味がある。まともな官僚・言論人にその姿を見せれば、彼らは大きな自責の念と自分たちの臆病ぶりや責任を放棄していることに対する恥辱感や罪悪感を抱くことになるだろう。それは、少なくとも、彼らを核武装の方向に向かわせる力として働く。

 

(※日本のエリートたちが、無意味な外交議論を続けていることは、この記事に書いた。) uipkmwvubg9azym.hateblo.jp

 

伊藤氏も、著作の中で、「正攻法で(正々堂々と)核武装の必要性を訴えればよい」と言っている。日本の官僚も米官僚も言論人も、我々の主張を論破することなどできない。


(※日本の核武装を否定する人たちに対する、具体的な論破の方法はこの本に書かれている。右は左の改訂版)

 

彼らに怒りを覚えるのは当然であるが、彼らに対して攻撃的な態度で接しないことは重要である。我々の主張がいくら正しくても、攻撃性は彼らに否定的な反応を生じさせ、対話を不可能にしてしまう。攻撃的にならなくても、我々の怒りを相手に伝えることはできる。外務省・防衛省の官僚は心の底では日本国民に対する罪悪感を感じている者も多いから、彼らを攻撃するのではなく、勇気づけるという姿勢も必要であろう。

 

米大使館に出入りするアメリカ人の多くは、国務省やCIA、ペンタゴンの官僚だから、日本の自主核武装を訴える日本人を見れば、彼らは驚くだろう。彼らは日本人は、臆病で、自己主張できず、戦略性の低い民族であると見下しているからだ。そして、アメリカ人はそのような人格の人間を軽蔑する。自分たちが見下し軽蔑するような国の核武装を容認するようなことはない。

 

そして、重要なことは基本的に複数で行わないことである。複数で行くと、相手に不必要な威圧を与えるし、同時に、それは臆病さと、同調圧力や集団でなければ動こうとしない意志薄弱性という、国際社会では大きな欠点となる日本人の民族性の表出・発露になるからだ。そのような精神的に軟弱で、行動力もない個人がグループを作っても、惨めなだけであり、何の成果も生み出さないだろう。精神的な苦しさや不安を他人から慰められ支えてもらうことで乗り切ろうなどという考え方の軟弱な精神の人間は、このような活動をする基本的な資質を欠いている。何をすべきかを一人で思考し考え出せないような人間も役に立たない。グループを作る意義は、思考力と行動力を持つ精神的に自立できた個人が集まることにある。

 

自決主義の西部氏は、自ら行動しようとせずに、自分に依存してこようとする人間のことは嫌いだっただろう。

 

これらの方法が成功に至るのかは分からない。しかし、我々の主張は正当なのだから、これらの行動は、(日本の核武装実現に大きな影響力を持つ)日米のエリートに確実に罪悪感は与える。罪悪感は人間を精神的に苦しめるから、それは日本の核武装実現に対して、プラスにはなってもマイナスになることはない。

 

対米従属(バンドワゴン主義、覇権安定化論)、経済相互依存論(理想主義)、ユダヤ陰謀論(国際金融資本陰謀論)を主張するのは、思考力が著しく低く、国際社会の現実が理解できないお花畑の状態にいるという動かしがたい何よりの証拠だから、これらの考えを支持する人たちとの議論は全く無意味であり、時間の無駄である。だから、彼らに絡まれても、「思考力が著しく低く、精神的にも植民地根性に毒された、かわいそうな、救いようがない人たちだ」と見なし、無視しても何ら差し支えはない。

我々まともな0.01%は日本を動かす力を持つ、言論人・日米の官僚を核武装へと動かすことに注力すべきなのだ。

そこにあるのは、小さな力で大きなものを動かすという「てこの原理」である。


「ピープルの力で社会を変える(精神武装)」とか「大衆を啓蒙して社会全体の知的レベルを上げて社会を変える」などというのは、何の根拠もない"自称"リベラルの人たちの妄想である。古代ギリシャの時代から現在に至るまで、常に大衆は社会のエリート層が右といえば右に、左と言えば左に動くだけの存在でしかなかったのである。エリート層(言論人・官僚・政治家)もそのことを熟知している。時として、大衆の中からリーダーが生まれることも起こるが、そのリーダーはえてして低俗なデマゴーグであり、戦争などの破滅的な方向に大衆を煽動し、破滅的な結果をもたらすだけである。

つまり、まともな思考ができるエリートにまともな方向に動いてもらうという以外に、日本が助かる道はない。

そして、たとえうまくいかなくても悲観的になる必要はない。なぜなら「この方法ではうまくいかない」ということが分かるから、新しいアプローチに取り組もうという動機づけになるからだ。失敗することによって、その分だけ無駄なことに時間を使うことがなくなるから、成功する確率が上がると捉え直すべきである。

 

西部・伊藤両氏の敗北主義は、できることをした結果としての敗北主義である。われわれ一般人はまだできることをしていない。今の段階で一般人が敗北主義に陥るとするなら、それはただの知能の低い悲観論者になる。そのような精神状態では、行動するモチベーションも起きない。あきらめたら、その時点で成功する可能性は消える。小野田寛氏が言うように「○○がないから、自分にはできないというのは、自分が無能であると認めた。」ということである。何度も繰り返すが、足し算引き算ができる小学生以上の知能さえあれば、中国の実質軍事予算が米国の二倍になる2030年のXデーまでの時間と、日本の核武装にかかる時間から考えて、日本の核武装はまだ手遅れではない。「もう手遅れ」などという者は、知能が著しく低いか、日本人に核武装をあきらめさせようとする米中露朝韓、いずれかの工作員の可能性もあるから、相手にしてはならない。


(※戦後、29年間ゲリラ戦を継続した人から学べることは多い) 

 

日本には、自主核武装の必要性を自分で考えて理解できる人間は多くて1万人しかいないが、日本を動かすエリートたち(官僚・政治家・言論人)が核武装に向けて動き出さない以上、このまともな一万人が行動する以外に、日本が助かる方法はない。このまま何もしなければ、2030年というXデーをこのまま丸腰で迎えるだけの結果になる。

(※2030年がXデーになる理由は、この記事に書いた)

uipkmwvubg9azym.hateblo.jp

 

 

また、出した例は数多くのアプローチの中のほんの一部でしかない。まともな思考力があれば、様々なアプローチの方法を考え出せるだろう。いいねをポチポチ押し、SNSで嘆いているだけでは、日本の核武装実現に何のプラスにもならない。求められるのは、具体的な行動である。

 

このことが、西部邁氏の死から我々が学べる最も重要なことではないだろうか?